この作品を観ていただく前に(監督からのメッセージ)

  もしあなたがこの作品を、親切なTVドキュメンタリーと同様と思い観られたなら、恐らく戸惑い、退屈し、そして失望するかもしれません。理解への手引きとして、少しだけ異質なこの作品の方法とスタイル、その意図するところを述べさせてもらいます。

  誰もよく口にしますが、私もまた一言で言って、出会うことになった人びとを自然な生きているままの姿で撮らえたいと願っています。

  ある意図を持って人をそのワクの中へハメ込もうとすることは、人の死を意味します。現実の活き活きとした生とは、そうした事前の企みの思惑(シナリオ)を常にはみ出たもの、超えたものを言うのではないでしょうか。作り手のテーマのワクの中へ閉じ込めるものではなく、そうしたワクから解放すること。

  現実を日々の変化の中で生きている、その全人間から、その一部だけを切り取ることは、細かく短く切り刻めば刻むほど、こちらのワクにはまり易くなるでしょう。他人の丸ごとの生を、単純化し、断片化し、そして編集してしまうことは、突き詰めればその人を自分の道具にすることへ、その人の独自の生を無視して死体として扱うことに繋がっていきます。それで私の場合、どうしても1カットで長回しの撮影となり、そして編集も極力単純な形にしたいと考えます。

  私は撮影が始まると、できるだけ私自身が素のままに、透明になっていきたいと節に思います。至難のことですが、私が何ら作為のない人間となれた時、その時こそカメラの前の人びとも芯から心を開き、その本当の姿を見せてくれると信じるからです。そうした人の生の輝く一瞬にでも立ち会えたなら・・・それは、その人の全人間性が濃縮された瞬間のはずです。もちろん、今の私は、そんな境地に程遠い所にいます。ですが、映画作りもその過程の方こそ大事なのだとしたら、それはきっと、私にとって一種の修行なのです。

  そんな、無に近づこうとするような姿勢で、まとまりのある記録作品が作れるのか、と思われることでしょう。ですが、不思議なことに、それこそ出来上がってしまうのです。作り手の受け皿が無地に近ければ近いほど、鮮やかに豊かに様々な声が、生き物の息づかいが刻印されるようです。作り手が自らの人生において、例えば「この時代をどう生きていけば良いのか?」(あるいは「原発がなくなる生き方とは?」)という問いを持ち続けていれば、作り手とそのカメラの対象となる全てが無意識の深い所で同調し、共鳴し、自然とそこに一つの曲が生まれていることになるのです。すべての人が、生き物が、それぞれ地球のハーモニーを奏でる楽器であるとすれば、作者という立場の人間は、指揮者というより拡声器に近い気がします。各自がその個性をのびのび勝手に?奏でていながら、しばらく遠く離れて耳をすますと(一個の人間の意図などはるかに越え広がりを持った)、それなりのささやかな交響曲になっているといった・・・。比喩の修辞が少々度を過ぎたかも知れません。ならば、これは私が夢とする、願う所の作品スタイルと言い換えましょう。ですが、私は今回の作品作りを振り返ってみて、それは、まぎれもない経験なのだと言いたい衝動を抑えられません。

  この作品の中の登場人物が言うように、小さな行為が大きな世の中の動きまで繋がっているとするなら、映画作りの姿勢の一つ一つも例外ではないはずです。

  原発が本質的にもたらすものは、人の死であることを明らかにしましたが、これまで巨大な力を背景にして、その政策(テーマ)を押し進め、人びとの声を圧殺し、そして現在、現実に人の命を奪っています。この作品がそれに繋がるような同じ方法を取る訳にはいきません。言うまでもなく、この作品が目指しているのは、いつか確実に原発を無効にしていくだろう、小さき名もなき人たちの生命讃歌に他ならないからです。

  そんな、密やかな声に満ちたフクシマからの風に身を浸し、耳をすませていただけたらと思います。

  以上、回りくどく、分かりづらかったでしょうか。後は、実際に作品を観ていただき、想像をめぐらせてもらうしかありません。

  本日はこの作品に出会うべく足を運んでいただき、ありがとうございました。
  この作品が、あなたの心の奥底に小さな波紋となって残ることを願ってやみません。